ART YARD Informer創刊号に特集掲載された、現在は退役したイラク帰還兵のインタビュー前編。バスラでの戦闘を体験した兵士の語る当時の状況から、彼らの生きてきた厳しい世界を垣間見ることができる。2004年収録。
ぜんぶ吹っ飛ばされて破壊されていた
●差し支えなければでいいですが、名前、年齢、階級、所属部隊は?
リプリー上等水兵:ジョン・リプリー(仮名)、22歳、able seaman(上等水兵)だ。一番下の階級から3ランク上。階級には、seaman、seaman star、cuffright seaman、ableseaman、そしてleading seamanがある。僕はHMAS(オーストラリア軍艦)Kanimblaに乗っていた。HMASというのは、Her Majesty's Australian Ship(女王陛下のオーストラリア船)の略だよ。でも、僕がイラクにいた時は、あれに搭乗していた訳じゃない。あれはヘリのサポート艦で、命令を送るプラットフォームでもあるんだ。ただ、それに一時的に乗りこんで、イラクの地にたどり着いたってわけだ。
●入隊する前は何をしていましたか?
僕がちょうど高校を卒業したばかりの頃だけど、ヨーロッパ各地を旅行してた。8ヶ月くらいね。それまでは南アメリカにいて、農場で働いてたんだ。それからヨーロッパにも渡って働いた。バーとかそういう所でね。で、地元オーストラリアに帰国してから、軍に志願したんだ。
●あなたはなぜ軍に志願しましたか?
その理由はいくつかあるんだけど、そのうちの一つはそうだな、軍での仕事にずっと就きたかったって事。僕の家族がそうしたようにね。自分自身にとっても良い事に思えたし、もちろん安定した職だってことも理由かな。まあ、僕を最高に活かせる仕事だったってわけだ。僕にうってつけで、正しい方向だと思うよ。僕の父は軍人だった。僕のおじいちゃんも、そのまたおじいちゃんもね。父はエクアドル海軍にいたんだ。それに僕にとっては小さい頃からいつも、水とは仲良しってかんじだったからね。
●イラクに行く前に、なにか特別な訓練を受けましたか?
ああ、受けたよ。6ヶ月間に渡って砂漠の上でかなりの量の訓練をこなした。僕たちは戦争になるってことも聞かされていたし、軍は僕たちにそのための訓練を施した。そのとき、外交的に危機的状況を回避する世論は沢山あったんだけど、僕たちが言われたのは「そんな話には耳を貸すな。何にせよ起こる事だ。」ってこと。だから僕たちは砂漠でしこたま訓練した。至近距離での戦闘訓練もかなりやったよ。それから僕たちにはそれと同じ位、核・化学生物兵器からの防護訓練も施された。基本的には、いかにして放射能などから生き延びるかって訓練。ケミカルスーツやらガスマスクやら、そういうのに役立つ物全部を使ってね。軍には何年もいるから、僕は前は他の任務に就いていたこともあった。インドネシアに派遣されて、イミグレーション・コントロール(移民管理)の任務に就いていた事があるんだ。大体は不審船に乗り込んでいって、違法に入国する人たちを逮捕・拘束するのが任務だった。まったくもって、楽しくない仕事だった。目的も見いだせず。こんなの軍隊のする事じゃない、って思ったよ。理由もなく、貧しい人々に自分たちを押し付けてる様な、そんな気分だったね。それから数年して、僕たちはイラクでなにが起ころうとしているかを告げられたんだ。
●それは9.11が起こってどれくらい後の事?
最初からオーストラリアが戦争に行く予定は決まっていたのさ。9.11のテロが起こったとき、僕らは海軍にいて、皆、「こんな事になって、どっかの誰かさんが、どこかでめちゃくちゃにされるような事になるぞ」って知ったんだ。9.11からちょうど一年後、バリで2つのナイトクラブがテロリストに爆破されて、オーストラリア人を含む300人が殺された。この事件でオーストラリアは戦争に参加する理由ができたんだ。この事件で、良き日は終わりを告げたのさ。皆が戦争の準備をし始めた。
●あなたの主な任務は?
僕は英軍のコマンド部隊に一時的に配属された。僕たちの主な任務はウンムカスル-バスラ間の水路システムを管理することだった。これはこの国を蛇行して通っている川を利用した施設で、この水路はペルシャ湾岸からバグダットに続いていた。僕たちはここの給水施設を敵の部隊や地雷から守り、人道援助を通して、地域開発をするのが役目だった。もう一つはバース党からバスラを解放することだった。
●それはオーストラリアを出発してからいつ頃の事?
僕たちがオーストラリアを発ったのは2003年の1/20だ。盛大な送迎会、沢山の人たち。夢のようだよ。で、そこから600人が船で出発して、大抵の奴らは散り散りばらばらになった。 僕たちはSAS、スペシャル・エア・サービス(イギリス空軍特殊部隊)と一緒だった。彼らはエリート部隊で、それぞれが様々なタイプの個別の任務を受け持っていた。たとえば敵地に潜入する者や、写真を撮影する者、それぞれが違う種類の任務を帯びていた。船内はただ、戦車やモーターバイク、その他の物資でいっぱいだった。3隻のオーストラリア艦と、2隻の駆逐艦、援護艦としてKANIMBLAが出航した。おそらく5000人程のオーストラリア人が搭乗していたと思う。パイロットや兵士や、航海士がね。全体的に多くはないけど、僕らはとても重要な任務を帯びていて、他の国も便りにしてくれていたと思うよ。
●特に決まった国と一緒に働いていた?
3つの大国、すなわちアメリカ、英国、それからオーストラリアがいて、英国とはとても密接な関係のもとに働いたよ。もちろんアメリカとも協力したけどね。まずプランはこうだ。米軍が可能な限り早く北部に進行し、オーストラリア軍と英国軍は乗り込んで行った米軍の背後を守る。アメリカの連中はまずは何よりも、「バグダッドまで競争」だった。彼らは、敵の油田への破壊工作をなんとしてでも阻止したがっていた。だから奴らはかなりがむしゃらだったよ。僕たちの仕事は、人々を圧制から解放する事だった。
●そして、地域を安定させる事?
そうだ。米軍は他の地域には手をつけず、その事には目もくれなかった。目標に向かってまっしぐらに乗り込んでいったんだ。後方で地域を安定化させるのは僕たちの役目だった。
●イラクでの一日はどんなかんじ?
イラクでの一日? 朝は早いよ。夜明けは4時半くらいで、夜はとても冷え込む。砂漠でも同じだ。で、食い物をあさって、ブリーフィング。そのあとパトロールに出かける。僕たちは4人編成でパトロールした。慎重に調べながらね。誰かがどこそこに隠れているっていう情報を元にパトロールをするんだ。大抵の場合は厄介な銃撃戦になる。で、そのあとは部隊へ戻る。敵の陣地を攻撃したり、こちらの陣地で防戦しないといけない時もある。で、また別の日には、また違う任務。水のボトルを満たすためにジープで20マイルを行ったり来たり。部隊のみんなの為に水を持って帰ってくるんだ。
●いつもボートの上に?
僕たちはボートで川をのぼっていった。で、船を止めてパトロールに出かけた。川辺でのんびりする敵はいないからね。
●あなた達たちはかなりの距離をカバーしないといけませんね?
川の入り口からバスラ(イラク南部の街)までおよそ80キロさ。バスラはイラク南部では一番でかい街だ。あの街はリバー・システムの真上にある。河川は砂漠のライフラインだから、大抵の市街地や町は主に川の通るライン上に存在するんだ。
●じゃあ、毎日同じ繰り返しを6ヶ月間も?
いや。時々っていうか、そうだな、例えば10日から12日に一度の間隔で、ヘリに乗り込んで船に戻ることはあったよ。シャワーを浴びたり、服を着替えたりしにね。みんな交替制で任務についているからね。捕虜をたくさん護送する事もあった。たくさんの人間が降伏したからね。これも勘弁してほしい仕事だ。助けを請う人間を目の当たりにするのは、精神的に不健全だからね。帰ったら暖かい食事を船内で食べたよ。足を投げ出して映画を見たり、普通にふるまうのさ。両親に手紙を書いたりね。
●じゃあパトロールに出たら君らは野宿を?
そうさ。塹壕の中でね。防御の時に備えて、毎晩「キツネの穴」堀りが必要だ。たとえば眠っている時でも穴の中なら榴散弾の破片から身を守れるからね。僕が腕に負傷した時も、小さな榴散弾の破片にやられたんだ。
●ということは、いつでも爆発が?
そのとおり。四六時中さ。ぜんぶ吹っ飛ばされて破壊されていたよ。
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